メルー国立公園(ケニア)でのボランティア活動2009-10-31 04:05:18
2009年10月25日
今日は、ナイロビからメルーに移動した。
我々が昨日から宿泊しているホテルは、ナイロビで一番古く植民地時代に建築されたというノーフォークホテル(Norfolk Hotel)である。ツインではなく、ダブルで部屋をとったため、幼少期以来久しぶりに母の横で寝たので不思議な気分であった。今朝、朝食をレストランで取ったが、ビュッフェ形式で食べ放題であったが、卵料理を焼いてくれるコーナーがあったり、サーモンの刺身があったり、チーズもカマンベールだけでなく数種類用意されおり、パンやケーキも多彩でとても贅沢な気分を味わうことができた。8時にツアー会社(Australken Tours & Travel Ltd)でチャーターした車が到着すると聞いていたので、早めに食事を済まそうと思っていたが、結局ゆっくりと朝食を撮っているうちに、会社の
Zippy社長(Managing Director、女性)が我々のテーブルまでやってきたので、時計を見ると8時直前になっていた。そのまま部屋に戻り、昨日の夕方少しだけしかホテルの敷地内を見れなかったので、庭で数枚写真を撮ってから玄関前に駐車してあったサファリ用のバンに乗り込んだ。Zippy社長をナイロビタウンの彼女のオフィスの前で降ろし、運転手に案内されて、ケニア国際会議場(Kenyatta International Conference Centre)を訪問した。裁判所と会議場に面した広場には、初代大統領のジョモ・ケニヤッタ大統領の銅像が置かれていた。この会議場のあるビルは、ケニアで一番高く屋上には展望台がある。そこに登ろうと考えていたが、母が既にJICA事務所からナイロビ市内の遠望は見ているということもあり、地上から見上げるだけにとどめた。
次に、ナイロビの高級住宅街であるカレン地区に移動し、博物館「Karen Blixen Museum」とキリンとイノシシが見れるLangata Giraffe Centreを訪問した。
Karen Blixen Museumは、「Out of Africa」の著者として有名なKaren Blixenが1914年から1931年の17年間に住んでいた家で、独立時にデンマーク政府からケニア政府に寄贈された。ちなみに、カレン(Karen)という地域の名前は彼女の名前に由来している。カレンは、デンマーク出身で、最初に結婚した男性と離婚した後、イギリス人のBenys Finch-Hattonと恋に落ちたが、彼もツァボ国立公園(Tsavo National Park)に向かう途中、飛行機事故で亡くなった。
このカレンの住んでいた古びた家の前で写真を撮った後、入場料(外国人800Kshs、ケニア人100Kshs)を払い、博物館の中に入った。アメリカ人の女性グループの観光客が訪れており、彼女たちと一緒にガイドの説明を聞いたが、説明が早すぎて通訳が難しかった。カレンは、狩猟が趣味であったことから、家の中には剥製やライオンの毛皮の敷物などが置かれており、愛煙家であった彼女が煙草を吸っている姿の描いた肖像画も興味深かった。
次に行ったジラフセンターLangata Giraffe Centreは、野生生物保護基金「African Fund for Endangered Wildlife(AFEW)」によって運営されており、カレン博物館と同様の入場料を支払って入場すると、園内には、子供づれの白人のグループや中国人の家族などがキリンに餌をあげたり、幼獣のキリンやイボイノシシを興味深げに見ている姿が確認できた。ジラフセンターは、日本にいる時から知っていたが、思ったよりも小さな施設であった。キリンにやる餌は、ドッグフードのようなものであり、園内は奈良公園でシカ煎餅をあげているような雰囲気であった。キリンは、器用に長い舌を使って掌に置いた餌を掬いあげていったが、よだれを垂らしたり、手のひらにざらついた舌が接触したりして、あまり気持ちのいいものでなかった。スタッフが気を利かして写真を撮ってくれるといい、カメラを渡して母と二人でえさやりをしているところを撮ってもらおうとしたが、なぜかカメラを向けた瞬間から、キリンが我々を敬遠し出して、隣にいた白人女性のグループの方に歩いていってしまった。
ジラフセンターを出発し、アフリカ最大のスラムといわれるキベラスラムの遠望できる場所で停車して、そのトタン屋根の家々が密集しているスラム街をしばらく眺めてから、メルーに向けて出発した。途中、様々に変化する景観を楽しみ、キエングでジョセフからデジタルカメラを返してもらうために10分ほど時間を費やした。ジョセフは、母と挨拶を交わし、なぜ私の家に立ち寄ってくれないんだと英語で話しかけた。ジョセフは母を家に招待したかったのかもしれないが、彼の家は電気もあく、居心地が良いとは言えないし、時間もなかったので断った。5時前にムレラ村に到着すると、ダンスを披露してくれる住民団体のメンバーだけではなく、村人が大勢集まっていることに驚き、少々戸惑った。私はもっとこじんまりとしたダンスショーを想像していたのだ。
我々は、ビニールシートを屋根にした東屋の椅子に腰をかけ、ダンスを見学した。女性、男性の割礼のダンス、借金のダンスなどがあり、母も踊るように促されたので、不器用ながらもステップを踏んで踊っていた。母が踊ると、その踊り方が面白いからか、見物したいた住民は大笑いしていた。中でも、子供たちの笑い声がよく聞こえた。ダンスはメルー族のものだけでなく、カンバ族のものも含まれており、複数の民族のダンスを見れることを売りにしているのかもしれないが、それならナイロビのボーマスオブケニアで見物することができる、と私は反発した。私が意外に思ったのは、途中で貧困者にお布施をするダンスがあり、そのダンスが始まる前に、リーダーの男性が、「次のダンスはお布施のダンスだ。お母さんには、お布施をする金持ちの座る席に座ってもらう。」と言った時であった。なぜ、観光客から金をとることを目的にしたダンスをわざわざ考えるんだ、と憤慨した。このグループは以前から、借金のダンス、HIVのダンスなど意図的に観光客の同情を誘うようなテーマのダンスを当然のように行っているが、今回は私が母が来るからダンスを披露してほしいと直接リーダーに頼んで実現したもので、我々から巻き上げるような対応は許せない、と思った。母が座った椅子の前で、物乞いに扮した女性が倒れ、彼女の頭の横に置かれた入れ物に、母は当然のように1ドル札を入れた。母のバックの中から、米ドルの札束が見え、その瞬間、グループのメンバー全員が物乞いに思えた。
ダンスショー終了後、ジョンが木工作品を展示している場所に案内してくれた。ジョンは、ダンスの最中に、「後でお母さんに作品を見てもらって購入してもらえるとうれしい」と耳打ちをしていた。その時、絶対に買わせてなるものか、と心の中で思った。実際に彼の作品を見ても、オリジナリティあふれるものはなく、メルーの地の利を生かした作品はなかった。ダンス終了後、リーダーに金額がいくらか聞いてみると、「イレブン、サウザント!!!」とはっきり言ったので、今度支払うとだけ言って、その法外な金額に対し文句は言わなかった。
そのあと、私の自宅に立ち寄り、荷物を置いて、母に少しだけ部屋を見てもらい、隣人のチェリオットに挨拶をしてから、レオパードロックホテルに向かった。
運転手のジョンは、道が分からなかったらしく、一回公園本部に行って、近くの食堂(カンティーンと呼ばれる)でサッカー観戦をしていた職員の一人を説得し、車に同乗してホテルまで案内してもらった。
ホテルには19時過ぎに到着した。玄関の外では、スタッフが待機しており、アンボセリのセレナホテルと同様におしぼりを手渡してくれた。夕食までの間、部屋で待機することになったが、ホテル側のミスで、2台のベッドのうち1台のサイズが小さく、スタッフは、しばらくの間この部屋で待機してもらい、後で別の部屋に移動して下さい、と頼んできた。いきなりの不手際に驚いたが、ここはケニアなのでごくありふれた問題なのかもしれない。スタッフ5名が我々の荷物を持って、レストランからかなり離れた場所にある、最初に案内された建物で、母には先にシャワーを浴びてもらい、私はマニャニの発表の準備を少しだけした。
しばらくして、スタッフが部屋に来て、今晩宿泊する部屋に案内してもらったが、その建物は受付やレストランが入っている建物からすぐ近くのところにあり、救われた気がした。ただ、シャワーのお湯の出が悪く、太陽光発電による節電のため、11時に電気が使えなくなってしまうなど、施設の低レベルなサービスには疑問を感じた。