南方で今川・北条と対峙して国境を封鎖され、北方では上杉
と以前から緊張関係にあるため、物資の補給が滞り始めます。中でも海を持た
ない甲斐は生命の維持に不可欠な塩を確保できずにひじょうに困りました。
ここで今川は上杉にも武田との国境を封鎖して欲しいと依頼しますが、輝虎は
「勝負は戦いで決着すべきものである」と言い、永禄12年(1569)には敢えて
武田に塩を贈る粋な計らいもしていました。
そして元亀元年(1570)年12月、輝虎は法号・謙信を名乗ります(剃髪は4年後)。
この後、諸国の同盟関係はめまぐるしく変わります。北条との同盟はあっと
いう間に破棄されて北条はまた武田と結び、元亀3年(1572)にはその同盟軍と
上杉軍が利根川をはさんでにらみ合ったりします。この年は今度は織田信長と
同盟し、信長は息子を養子にやる約束をします(但し実行されていない)。そし
て相変わらず関東攻略を図る一方でこの時期から盛んに越中方面にも進出。
こちらの方は順調に攻略が進んで富山から能登までを手中にします。しかし
この付近で結果的に勢力範囲がぶつかってしまった信長との同盟が崩壊。謙信
は信長と対立する毛利と同盟を結びます。
そして天正5年(1577)能登半島の七尾城の攻防により実際に織田勢力とぶつか
りあうことになり、同年9月に湊川(現手取川,石川県美川町)で信長の軍と
直接衝突。これを撃破しました。
そして翌年、北陸のほうが一段落したので再び関東攻略に移ろうとした所で
病気に倒れます。天正6年3月13日(1578.4.19)春日山城で死去。享年49歳。