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    古書・思いの外2009-11-16 10:33:04

    動くな、死ね、甦れ!9日前

    現在、イメージフォーラムで公開中の映画タイトル。備忘録かつ、検索ヒットを狙っただけで特に意味はありません。

    しかし、衝撃的に面白いので、見に行くべきです。全く関係ないけど、少し間を空けてタイトルを見た時、「動くな」が「働くな」に見えた。


    最近、思いの外な出来事が相次ぐ。近日このブログでも告知できるかと思います。

    このどうしようもない頻度でしか更新されないブログも全く無駄じゃなかったということがわかって嬉しい内容です。

    いや、どんどん更新すべきだと改めて思った次第。

    朝7時に目覚め、のんびりコーヒー飲みながら本を読むという衝撃的な事態が起った今日、いつになくポジティブシンキングになっています。

    以下、朝の読書。というより、昔付けた付箋部分のみ読んで深く納得し、あとは半分以上ボーッと考え込む。


     哲学的な述語を用いていえば、剣や杖はある種の「他者」である。「他者」があちらにあり、「私」がこちらにある、という「対」関係で構想する限り、私が剣を使うのか、剣が私を使うのかという「主と奴の弁証法的相剋」は避けがたい(ヘーゲルの「主と奴の相剋」という図式は、武道にもほとんどそのまま当てはまる。)私たちがそのような終わりなき相剋から逃れるためには、楽音だけがあり、奏者がいないようなハーモニーを奏でる道をなんとしても探り当てなければならない。あらゆる和音はそこに差異や「ずれ」や違和があるからこそ美しく響く。その美しさを私たちは追い求めずにはいられない。…その根源的趣向性は、そのまま「一人ではいられない。しかし支配者でも奴隷でもいたくない、ただ、他者との終わりなき対話のうちにいたい」という「他者たちとの共生」を基礎づける起源的な欲望に通じている。


     敵を忘れ、私を忘れ、戦うことの意味を忘れたときに、戦う者は最強となる。なぜなら、彼にはもはや、「守るべき自我」も「破るべき敵」もないからだ。その身体運用はあらゆる「居着き」を去った融通無碍、完全に予見不能の自在境に到達している。しかし、その最強の身体は、もう戦うことに意味を見出すことができない。


     自分にとっての「自然な身体運用」と感じられていたものが「民族誌的奇習」にすぎないことを覚知したとき、自分の身体は「それ以外のコード」でも動くことができるという事実を知ったとき、私たちは体感の「ずれ」のようなものを感じる「私」が「私のものではない身体」を生きる経験。それは、長期にわたって組織的な訓練を積み重ねてきたものだけが味わうことのできる、ある種の至福な体感である。

    内田樹『私の身体は頭がいい‒非中枢的身体論』(新曜社、2003)



    上記の引用と、以前見た神村恵のダンス、そのダンスを見て考えたことを書道の展覧会で友人の作品を前に話し、考えたこと。

    これらに共通しているのは、身体にある種の不自由さを強いることで、そこから導きだされた「ずれ」「違和」が瞬間的であれ逆説的に「自由」=「私」が「私のものではない身体」を生きる経験を垣間みる契機となるということ。

    僕には、そういった「至福の体感」を得たことはないが、それらを体感している人、作品を見ることで、その体感に近づくこと、反復させることがある程度できると思うし、それは自分にとって、とてつもなくワクワクすることであるように思う。(もちろんそれは単純に心地良いというものではなく、むしろ逆なことが多い)

    突き詰めれば、自分が本を読んだり、映画を観たり、という何らかの表現を欲するのは、それだけのためといえる。その意味で自分も「至福の体感」を得る道筋を模索したいし、何かを表現したいと思う衝動はそれに尽きる。

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