上杉政虎となった彼(彼女?)は川中島で第四回の戦い
を行いました。これは「川中島の戦い」の中でも最大の決戦であり、両者多数
の隠密も使って情報戦を繰り広げ、陽動作戦あり・目くらましあり、心理戦あり
そして実戦闘も激しくありの総合戦となりました。武田晴信自身も負傷してい
ますし、一説には晴信と政虎の一騎打ちもあったといいますが、それはどうで
しょうか。ただそういうことが起きてもおかしくないほど、この戦いでは両者
の軍勢は入り乱れた状態で戦っていました。
しかし結局この戦いも両者痛み分けで終了しています。そしてこの戦いの後で
将軍足利義輝から一字もらい、政虎は輝虎と改名しています。いわば政虎の
名前はほとんど第四回川中島の戦いのためにあったようなものともいえます。
武田との戦いが決着がつかないので、輝虎は武田を牽制したまま関東に軍を進
め、北条氏康の勢力を削ぐのに腐心します。そして永禄7年には第五回の川中島
の戦いが起きますがこれも武田勢が一時的に奪った城を奪回しただけで終了し
ています。しかしこの頃から、戦闘は頻繁に起きるのに特に領土が拡大する訳
でもないことから離反する武将が相次ぎました。
その中、永禄11年(1568)武田・今川・北条の三国同盟が崩れてしまいました。
今川と北条は甲斐との国境を封鎖し、翌年には足利将軍家の仲介で、上杉と北条
の和議が成立。北条氏康の七男氏秀が輝虎の養子になり彼(彼女?)が9年前まで
名乗っていた名である景虎を名乗ります。なお輝虎はそれ以前の永禄7年に甥の
顕景あらため景勝を養子にしており、後継者としては彼の方を指名していまし
た。しかし、この景虎(氏秀)の存在は、後に謙信が亡くなったあと、面倒な
後継争いを起こすことになりました。