☆平凡社1972 (。・ω・。)v
☆西国三十三所 ♪
さいこくさんじゅうさんしょ 近畿(きんき)地方を中心に散在する33ヵ所の観音霊場をいう。霊場ごとに巡礼札を納めることから、三十三札所(ふだしょ)、または西国札所あるいは単に札所ともいう。日本の巡礼の霊場として、弘法大師の四国八十八ヵ所とともに古来有名である。もとは単に三十三札所と呼んでいたが、諸所に三十三観音巡礼の札所ができるにおよんで、とくに西国を付するようになった。33ヵ所の数は《観音経》(《法華経》普門品)に述べられるように、観音が33種に身を代えて、ひとびとを救った信仰によるものであろう。三十三所巡礼は平安中期ころから行われたものらしく、奈良県長谷(はせ)寺の得(徳)道上人が病んで仮死状態に陥ったとき、閻魔(えんま)王から日本に観音霊場33ヵ所ありと聞き、各霊場の宝印を得て息を吹き返し、その霊験により巡礼を始めたといわれる。またこの霊異を聞いて花山法皇が親しく巡拝したことによるといわれるが(《竹居清事》《天陰和尚語録》)、三十三所の選定については不明である。しかしはしがきに、〈粉河(こかわ)の観音で御礼にかかせ給はった御歌〉とあり、すでに粉河寺巡拝と巡礼札の先駆を思わせ、《日本紀略》《扶桑略記》《書写山縁起》などには、法皇が986年兵庫県の書写山におもむき、性空(しょうくう)上人を訪れたことが記されているから、このころから各所への巡歴が行われたものと考えられる。霊場の数え方については、時代によって異同があるが、三十三所の名称が最も古く見られるのは、寺門伝記中にしるされた前天台座主(ざす)行尊の《三十三所巡礼手中記》で、そののち長谷僧正の1150年の《参詣(さんけい)次第》、覚忠の1161年の《三十三所巡礼記》、などに霊場順位が見られ、だいたいの霊場は現時と類似するが、その順位は次ページの表のように異なる。さらに1335年の中宮御産の《祈願目録》、1360年の《拾芥(しゅうかい)抄》の記述になると新たに11ヵ所ほど加わり、その増減はいちじるしいが、室町中期から江戸時代にかけて、現時の霊場にしだいに定まったもののようである。西国を付する呼称もこのころすでに用いられたらしく、石山寺に残る室町中期の巡礼札には、すでに西国三十三所とある。札所の順位に那智山を第一番とするのは、覚忠や長谷僧正の順位にならったものであろうが、那智山が日本の観音浄土の補陀落(ふだらく)山と古来呼称された信仰にもとづくもので、また平安朝以来熊野詣(もうで)の風が一般に行われたことに関連したものとも思われる。しかし、行尊の巡礼が長谷寺を第一番としたのは、得道上人ゆかりの寺であることによるものらしい。また三室戸(みむろど)寺(京都)を順路の終点としたのは、初期の巡礼が京畿のひとびとによってなされたことを物語る。行尊、覚忠、長谷僧正らいずれも同様である
霊場巡礼者は、〈迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処有南北〉の経文を墨書した笠(かさ)をかぶり、小袖(こそで)の上に弥陀(みだ)三尊の種子(阿弥陀仏と観音、勢至菩薩(ぼさつ)を現わす古代インド文学)と〈奉順西国三十三所〉を中央に、かたわらに〈為先祖代々菩薩〉などを、右に年月日同行何人と、左に国所姓名をしるした〈袖なし〉を着け、胸に巡礼札の箱をつけるなどの巡礼姿で、三十三所の御詠歌(ごえいか)を唱えて霊場を巡拝した。各礼所においては、写経および巡礼札を納め、その標として納経帳に寺印の押印を受けるが、現在では巡礼札を納めることと、納経帳に霊場順位の署名と寺印を受けることの風習のみが行われている。なおこのほかの三十三所観音として著名なものは、坂東(関東)三十三所、秩父三十三所であり、江戸、洛陽(らくよう)、大阪などその他多くの三十三所がある。また那智山の〈ふだらくや岸うつ波は、三熊野の、那智のお山にひびく滝津瀬〉に始まる三十三所御詠歌は、最も広く行われる
(塩入 良道)
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