林誠司 俳句オデッセイ2009-11-11 11:17:52
お悔やみ 林翔先生
光年の中の瞬の身初日燃ゆ 林 翔(はやし・しょう)
(こうねんの なかの しゅんのみ はつひもゆ)
林翔先生が亡くなった。
11月9日午後2時30分、すい臓癌だった。
享年95歳、すい臓がんではあるが、立派に天寿を全うされたのだと思う。
林翔氏は大正3年、長野県生まれ。
生後十ヶ月で生母と死別。
國學院大學卒。
俳人協会顧問、「馬酔木」「沖」最高顧問。
昭和46年第1句集『和紙』で第10回俳人協会賞、平成17年第7句集『光年』で第20回詩歌文学館賞受賞。
ほかに『寸前』『石笛』『幻化』『春菩薩』『あるがまま』などがある。
水原秋櫻子に師事し、石田波郷を筆頭とした「馬酔木」の充実期を能村登四郎、藤田湘子らとともに支え、能村が「沖」を創刊した際には編集長のちに副主宰を担当した。
生涯、能村を支え、「沖」に黄金期をもたらした。
福永耕二、正木一浩、正木ゆう子、能村研三、中原道夫、筑紫磐井、小澤克己など、「沖」から次々と新人が登場し、俳壇を席巻したが、その育成・発展に大きく関った。
また、「沖」に所属しても、「馬酔木」にも投句をし続けた義理人情に厚い人でもあった。
現代俳句の巨星がまた一人消えていってしまった。
私は昨年、帝国ホテルで行われた「馬酔木」1000号記念祝賀会で、遠くからお見かけしたのが最後であったが、二、三の思い出もある。
一つは、私が30歳前後の頃、お手伝いした松戸市市民俳句大会の選者としておいでになった時。二次会の最後に、若い奴に元気な歌を歌ってもらおうということになり、私がサッカーの「NAME OF THE GAME THE FOOTBALL」を唄った。
みなも大いにうけ、盛り上がったのだが、歌い終わって翔先生の脇を通り過ぎた時、先生が私の手を握り、
これからの日本を背負っていってください。
とはっきり言ったのである。
びっくりした。
私に日本を背負え、というのだ。
翔先生は長年、市川学園の教諭を勤め、若者の教育に携わってきた方なので、そのような言葉になったのだろう。
ただ、私は、翔先生に、言葉上ではあるが、日本を託されたのである。
今、思うと、素朴で実直な教育者であったであろう先生らしい言葉である。
また、数年前に、「馬酔木」同人作品鑑賞を当時編集長であった橋本榮治さんに頼まれ、執筆した時、翔先生の作品を鑑賞させていただいた。
たくさん取り上げた中での一句ではあったが、わざわざ先生から、お礼のお葉書をいただいた。
余計なことはいわず、自分の句を取り上げ、よい鑑賞をしていただき、ありがとうございました、という意味の言葉であった。
先生はすでに九十歳を超え、詩歌文学館賞を受賞するほどの大家が、新人のようにお礼を述べていた。
そういう思い出もあり、それほど親しくはないが、今回の訃報はどこかさびしく、かなしい。
おそらく、一度でも先生に接した多くの人がそう感じているだろう。
掲句は『光年』のなかの一句。
「光年」とは途方も無い時間の象徴であろう。
大きな時空のなかの一瞬の身、それが作者であり、人間である。
だからこそ、この初日の出のように、限られた命を燃やそうよ、と言っているかのようだ。
そして、先生は今光年のなかへ消えていったのだ。