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    filmemo2009-11-13 03:42:22

    [スクリーン][イベント]『葉子の結婚』

    万田邦敏監督特集、ぜんぶ見る気でいたのにけっきょく最終日の最終回に駆けつけるのみ。ああ口惜しい。けれどこのオムニバスだけは見逃すわけにはいかない。きっといっぱいだろうなと思っていたら、案の定ものすごい熱気で、チケットを買い求めるべく列につくなり「これ以降立ち見になります」。


    『葉子の結婚』はいわばクロージングの特別上映という位置づけなのか、先にトークショウ。蓮實重彦が映画の実作者にあたえてきた影響というテーマは、ひじょうに興味深いものだった。彼がそれまでの映画批評の方法論と文体をまるきり変えてしまったことはいうまでもないが、映画作家にあたえた影響となるとこれはまた別の問題かもしれない。イタリアのネオレアリスモには、チェーザレ・ザヴァッティーニがいたし、フランスのヌーヴェルヴァーグにはアンドレ・バザンがいた。そして立教には蓮實重彦がいた。いま、ひとつの運動を牽引すべき批評は存在しているのか。

    再履修 とっても恥ずかしゼミナール

    再履修 とっても恥ずかしゼミナール


    さて『葉子の結婚』だが、どの作品をだれが監督しているのかをきちんと頭に入れずに見たもので、先入観なく見られた。ただ「火曜日」の粟津さんと「水曜日」の佐藤さんはすぐにわかった(笑)。というか日曜日まであると思いこんでいた。オムニバス作品としてはまとまりを欠く印象で、もうちょっと相互の作品に緊張関係があってもよかったと思う。


    6作品の中で抜群に面白かったのは「月曜日」。小出豊監督の作品は『綱渡り』を見ていただけだったのだが、今回の作品は映画的なセンスが突出していると思われた。色彩感覚がすばらしく、とりわけ夜と真昼の劇的な転換による画面の明度の落差。湾岸の真昼の光線が、夜の女の顔を別のものに作り変えている。そして夜の部屋に横たえられた布団の赤。またフレーム内での人物の配置に恐るべき緊張感がある。人物がフレーム・イン/アウトすることの政治にきわめて自覚的な演出がなされている。そうしたリジッドな画面作りのなかに、「おはよう靴下」や「人生よろこばせっこ」のような軟骨系の言葉がするりと入り込んでくる。この硬と軟の緊張こそが、「月曜日」を特異なノワールに仕立て上げている。長編の『こんなに暗い夜』を何としてでも見たくなった。


    あと面白かったのは長島さんの「木曜日」。長島さんの映画はともすれば「ふつう」に見えてしまうところに最大の罠があるように思う。実際この「木曜日」も、一見昼ドラ的な不倫ものの一場面、もっといえば昼ドラの粘着質の世界よりもさらに「ふつう」の日常的場面に近いとさえ感じられる。しかしこの「ふつう」こそが何より恐ろしいものなのだ。「ふつう」の日常の、薄皮の一枚下には異形の情念がどくどくと脈打っている。その薄皮をめくりとり、血を吹き出させることもできたかもしれない。けれど「木曜日」はあくまで「ふつう」さの外観をまとった薄皮の上からその血の赤を眺めている。凝視している。そんな感じがする。ラストの車内でのダイアローグ、徹底したカットバックによって顔と言葉が重ねられるたびに、女の異形の血が画面に脈打つ。これは恐い。ただもうひと展開ほしい気がするのも確かで、これは前作の「それを何と呼ぶ?」(『桃まつり presents kiss!』)でも感じた印象。真に長編が待たれる作家だ。付言するなら、中盤の、とくにグラウンドでの再会のシーンでのボールの使い方などは、「ふつう」というよりは演出の凡庸さを感じたこともたしか。



    終了後の打ち上げにもちらと誘っていただいていたのだが、「neoneo」坐で山形映画祭の打ち上げがあったのでそちらへ向かう。短時間でいろんなものを呑みすぎたようで、御茶ノ水駅へ向かって狂ったように走り、後輩に迷惑をかける。

    (09/11/7 アテネフランセ文化センター「可視の100、不可視の100」)

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